HokBen(ホクベン)

元々は、Hoka Hoka Bento(ホカホカ弁当)というネーミングだったが、いつの間にかHokBen(ホクベン)と変わっている。言葉を短縮したり、略式表示が日常化しているインドネシア社会では、ホカホカ弁当では名前が長すぎたのだろう。

 

自宅のすぐ近く、大通り沿いにHokBenが開店した。大型ショッピングモールには、必ずと言っていいほど店舗があるが、道路沿いに独立した店舗を構えるのは珍しい。

看板を見ていると、ホカホカ弁当が生まれた1990年頃が思い出された。

 

当時、私は勤務する建設会社で鉄道プロジェクトの現場監督をしていて、レールを枕木に固定する締結具を製造販売する会社の社長と知り合った。パテントを持つイギリスのメーカーの委託を受けた、アジア地区で唯一の現地企業である。社長は、世界観のあるエネルギッシュな男で、数多くのグループ会社を経営する中国系のインドネシア人だ。

また、日本贔屓な人物で、暇さえあれば訪日して、日本のビジネスを勉強していた。確か1990年だったと思うが、訪日から帰国した社長が私を訪ねて来た。「ほかほか弁当」をインドネシアでやろうと思うが、どう思う? と言った話であった。今思うと、本人の意思はすでに決まっており、面談の目的は宣伝の為だったと思われる。

当時日本では、「ほかほか弁当」全盛期で、東京の街を歩いてあちこちにある店舗が目に入り、商機と考えたに違いない。

 

開店宣言から1か月もしないうちに、ショッピングモールに次々と開店が始まった。

ただ、まだマクドナルドやKFCも無い時代で、ファーストフードが根づいていないので、集客に苦しんでいた。再び社長がやって来て、現場で利用してくれと懇願された。

当時現場は、鉄道軌道の切替工事を連日夜間作業で行っており、作業員、社員、発注者など100人以上が携わっていた。夜間作業では、従業員に夜食を支給するのが慣例で、従業員は下請会社、社員と発注者職員には元請である私の会社が手配・支給していた。

全従業員分の夜食を「ほかほか弁当」にし、特別価格で提供してするという合意をして配布を始めた。弁当は、チキンのから揚げと人参のサラダ、白飯という内容だったと記憶している。配布を始めてみると、従業員の評判が良く、忽ち評判が広まっていった。

 

「ほかほか弁当」成功の功労者は、私だと思っている。店舗が増え続け、成功への道を歩んでいる中でも、社長は私に会うたびに敬意と礼を尽くしてくれた。社長の名刺にサイン入りで「このカードの持参者には全て無料で食事を提供」と記載して、何枚も渡してくれた。幾つかの店舗で何回か利用したが、何人で言っても何を注文しても本当に無料であった。得をしたというより、社長の意向・方針が全店舗に周知されている事に、驚きと社長の経営能力に脱帽した次第である。

益々の発展を祈念している。