急増するにわか事業主

 新型コロナ肺炎による社会制限の影響で、倒産や閉店、給与のカットなどで失業者や生活困窮者が増えているように見える。政府や自治体が営業自粛規制を発しても、日本の様な補償や支援が無いので、当地の経営者は生死の危機に晒されている。

 最近多く見られるのが、コーヒー飲料の販売や菓子類を販売する人達である。最近、私の自宅の近所の奥さんがコーヒー飲料の製造・販売を始めた。自宅でコーヒーを淹れ、200ml、350ml、500ml等のペットボトルに詰めて販売している。近所に少なくとも4人の新事業主がいる。自宅でコーヒー豆を焙煎する人、挽いたものを買ってきてお湯を注ぐだけの人、製造方法はまちまちである。

 販売を始めると、プロモーションと言って数本のボトルを届けてくれる。味見をして意見を聞かせろという事らしい。一時は冷蔵庫に10本近くのボトルが納まっていた。さてその味だが、どれもこれも私の好みとは程遠いもので、とても買う気にはなれない。コーヒーの香りや味がせず、ミルク(牛乳)味でやたら甘いのである。インドネシア人は、やたら甘いのが好きではあるが、コーヒーの味がしないのでは売れないだろうと思っている。やはり、カフェのプロが淹れたコーヒーとは格段の差である。私は、コーヒーの銘柄には拘らず、アメリカン(薄い)に少しだけ砂糖を入れて飲むのが好みなので、近所の新事業主さんの売り込みを断る口実を探している。

 コーヒー飲料と同様に、ケーキやプディンなどを作って販売している人も数人いる。料理自慢の奥様方である。これらも、私にすれば食べたいと思う時に、ケーキショップで好みのケーキやプディンを買う方が嬉しいし、美味しい。一言、「美味しい」などとお世辞を言うものなら、押売り的に届くので要注意である。夫婦二人の家庭に、数日おきに大きなケーキが届いても食べきれないのだ。こちらの方も、断る口実探しに苦労している。

 インドネシア人は、誰かが商売を始めると、「あの人に出来るのだから、私にも出来る」と考える人が多い。ましてや、たいして資本の必要ない商売なら、専門知識や技術が無くても真似をする。私からすれば、原価計算をしているの?、毎月いくら稼げるのと聞きたいのだが。外出規制のせいで、気晴らしに始めたのなら良いが、収入増を考えての挑戦ならやめた方が良いと思っている。

 しかし、まだまだ「にわか事業主」は増えそうである。

 

不確実性

インドネシアに暮らし始めて30年以上が経過した。以前に比べると、ハードやソフトの面で、先進国並みの対応が見えるようになった。しかし、日本と比べると色々な面で発生する”不確実性”(確実ではない)がストレスの一つになっている。

①クレジット・カードの請求書

 毎月末の請求書が、翌月の第1週に宅配便で送られて来るのだが、突如として郵送が途絶えてしまう。送付時期に年末・年始やレバラン休暇が絡むと、必ず途絶えてしまう。カード会社の職務怠慢か、宅配便の職務怠慢か定かではない。奇妙に思うのは、数か月すると従来通り復活するのである。また、100万ルピア以上の使用時、新規の店舗での使用時には確認のSMSが入っていたが、このサービスもいつの間にか途絶えてしまった。

 請求額は、ネットや携帯電話で確認できるが、年寄りの私には面倒この上ないのである。請求書代を払っているのだから、決めた事は確実に実行せよと言いたい。

②銀行やカード会社のコールセンター

 どの会社もコールセンターを常備し、大々的にサービス拡充を宣伝しているが、内容は全くお粗末なもので、その機能を果たしていない。以前、食品スーパーでの買い物が2重で請求された事があり、コールセンターに連絡した。調査して連絡するという事であったが、数週間たっても連絡が無い為に、こちらから電話すると担当者に電話をまわされた。クレームは伝わって無く、一部始終を説明する羽目に。再び担当者は調査するので1週間まてとの事。連絡が無い為に、再び電話すると今度は、”請求額に間違いは無い”との返答であった。1ルピアまで同額を2日続けて買い物する訳はないだろうと言う私の主張にも耳を貸さない。間違いないを繰り返すのみである。買い物時にサインしたレシートを見せろと言ったら、本社まで来て書類で申請しろと言う。結局、数か月間のやり取りの末、泣き寝入りとなった。

 カードの盗難・紛失の際にブロックする事には対応出来るが、顧客のクレームには対応出来ていないコールセンターである。

③銀行口座

 新聞の投書欄で時々目にするが、本人の憶えの無いお金が勝手に引き出されたり、送金されたりする事件が発生している。国内大手の銀行である。投書によると、銀行にクレームすると、間違いのない処理がされているとの返答だった様である。事件を調査する以前に、クレームそのものを拒否するような対応の様であった。投稿者は数か月間、担当者をたらいまわしにされた様子。

 かなり前の話だが、日本人が大手銀行の貸金庫に現金や貴重品を預けていた。1年後に金庫を開けると現金が減っていたとの事。銀行にクレームすると、管理は万全でそのような筈は無い、知らないとの一点張りで、泣き寝入りしたらしい。

 不確実性の原因は、責任感の欠如、義務感の欠如、職務怠慢と言った人間性・国民性に他ならないと思う。だから、私はネット・ショップを決して利用しない。楽天がインドネシアで展開したネット販売ビジネスを、数か月で撤退した事から得た教訓である。

 

 

掲示板の炎上

コロナウィルス肺炎の感染拡大を阻止するために、各国で実施されている都市封鎖や社会制限措置が1か月以上になった。ジャカルタ都市圏の規制も、4月10日に発令されて1か月半になるが、感染者数は毎日500人規模で拡大し、5月19日現在で感染者数14,087名、死亡者数1,221名となっている。

殆どの日本人は、外出自粛を忠実に守り、自宅で過ごす人が多い。しかし、さすがにストレスが溜まって来たのか、日本人社会で運用されているインターネットの掲示板への投稿が増え、炎上する投稿・話題が多くなった。以前は、ごく限られた投稿者が書き込んでいたが、最近では投稿する新参加者が急増している。

投稿の内容は、インドネシアの感染者数の増加への不安、駐在者の本帰国か一時帰国かの判断、子供の学校の問題、日系レストランの営業問題などなど。もともと、この掲示板の目的は、日本人間の情報交換であって、他人の悪口やタレコミをする場ではなかったのだが、最近の投稿を見ていると他人の意見を否定したり、難癖を付ける投稿者が多くなった。

私は、インドネシアは正解の無い国であり、自分の経験の全てが正しい訳ではなく、その経験はこの国で過ごすための一例に過ぎないと考えている。何しろ、同じ問題に遭遇しても、解決策はその時その時で全く違うという経験をしているからである。従って、色々な人が投稿する内容を参考にして、自分の考えを纏めて実行し、30年間大きなトラブルや失敗も無く過ごして来た。自分の知識や考えが正解と考え、他人の意見を否定する人たちには、もっと謙虚になって、他人が参考になるような投稿をして貰いたい。

50年前に手掛けた建造物が記事に

インターネットのニュースを読んでいたら、鉄道チャンネルというサイトに、「宮原操車場に残る築50年超の鉄道遺構」という記事が目に留まった。宮原操車場は、私が建設会社に入社して2年目の時、現場監督として初めて手掛けた建造物があるので、忘れられない地名である。

記事を読むと、何とその建造物である「高架水槽」の写真が2枚も掲載され、施主、施工者、設計荷重、建設時期などの説明があった。新幹線の下り列車に乗車する度、新大阪駅を出発すると直ぐ左手を見て、「高架水槽」の存在をいつも確認していたが、記事によるとまだ現役のようである。そして、約50年前の建設時の事が懐かしく思い出される。

入社2年目だった当時の私は、仕事が解りかけて来た事もあって、少々生意気であり、自身満々だった。現場には、主任と私の2人が配属となったが、主任は兼務で他に大工事を抱えていたので、実際の現場の指揮は私が取る事になった。私は、高架水槽1基の施工なんて簡単だと舐めて掛かっていた。高架水槽は、円錐形の頂部を切った様な形状で、高さは25メートル位だったと記憶している。

施工が始まると、測量で躓いてしまった。円錐形の中心点が測量の度にズレてしまい、外壁の角度が均一にならないのだった。現在の様なGPSを使った位置や、距離が測定できるような測量機械が無い時代である。型枠大工の世話役に助けられて、測量方法を教わり、無事完成した。論理より経験が大事という事に気づかされた事が、その後の仕事に大いに役立ったのである。

自分の手掛けた建造物が記事になり、誇らしいやら、嬉しいやら、何とも幸せな気分である。

宗教心

ラマダン(断食月)が始まって10日余りが過ぎ、早朝起床して夕刻までの断食という1日の生活サイクルが出来上がり、身体の辛さが薄らいできた。私は、日常の礼拝は行わないが、ラマダンには家族と共に参加する。宗教心より、私が参加しないと家族の日常生活を壊してしまうからだ。私だけに昼食を用意させ、私だけが飲食するとなると、他の家族の断食を邪魔する懸念があるからで、思いやりだと思っている。

元々仏教徒の私は、妻と結婚する際にイスラム教に入信した。私が改宗しなければイスラム教徒との結婚が出来ないと言われたからである。入信の際に、儀式を司るキアイから、「結婚の為に入信する事は認められない。信心するための入信だ。」と聞かされた。しかし、本音は結婚の為の入信であり、先祖が仏教徒であっただけで、無宗教で数十年過ごして来た自分が、直ちにイスラム教を信じろと言われても難しい。私のイスラム教は、未だにID登録上の宗教である。

最近、3歳半になる孫娘が、大人達と一緒になって礼拝する姿が見られるようになった。見よう見まねでやっている。子供の頃から親たちに習い、当然のようにイスラム教に接し、その教えを伝授されているので、他の宗教が入って来る余地はないのだ。日常の礼拝、ラマダンなどは慣習・義務として宿っている。日本人の私が思うような、宗教は自由なもの、信じるも信じないも自分次第という考えは通用しない様である。

従って、ラマダン時には、日常の礼拝や教えを守らない者までも行動を共にする。義務であるから、断食しない者は避難され軽蔑される。それが嫌で無理にでも断食を行ったり、装ったりしている者もいる。他人に自分の宗教心をアピールする事が必須の様にも見える。

私は、神や仏などの存在を否定しない。どのような宗教であれ、作法であれ、それらに従わなくとも、他人にアピールしなくとも、自分の心の中で、そっと祈ることも信心であると思っている。

明日は明日の風が吹く

新型コロナウィルス流行による外出自粛の為、すでに1か月以上もの間、自宅で女房殿(インドネシア人)と24時間顔を突き合わせて生活している。以前は、私が会社に出掛けたり、女房殿が外出したりしていたので、夫婦が接触する時間は数時間であり、24時間殆ど同じ屋根の下にいた事はなかった。コロナウィルスの恐怖と外出自粛、断食によるストレスで、最近では夫婦の口喧嘩が多くなった。日本ではコロナ離婚という新語も出来た様だ。始終、顔を合わせて会話が増えてくると、私と女房殿の性格の違い、国民性の違いが顕著になってきた。

「女房殿へ一言!」

早朝に始まる断食の為に、夜遅くまでテレビを観ていては、体調を崩しますよ。

(睡眠3~4時間で起床し、不機嫌な顔で食事の準備。断食が始まると、日中はだらだら寝ているのは、断食の趣旨に反しませんか?)

「女房殿へ二言!」

外出自粛が出ているのに、毎日買い物に行くのは危険ですよ。

(数日分の献立を考えて、買い溜めすればいいのでは? コロナウィルスの感染リスクが高くなるでしょ?)

「女房殿へ三言!」

コロナウィルスの予防や断食の履行など、他人の事をとやかく言う前に自分が守りなさい。

(他人の事を気にするより、自分の信念に沿って生きる事が大事ですよ!)

 

友人の他界に思う

インドネシアで生活を始めてから知り合った20年来の友人、M氏が他界した。74歳だった。

私と同じ建設業を営む男だった。以前は大手建設会社に勤務していて、インドネシアに駐在していたが、一念発起して起業したと聞いている。この国が気に入ったのか、ビジネスチャンスがあると思ったのか、好きな人が出来たのかは聞き漏らした。

私の勤務する会社が施工する工事を、M氏が下請けとして受注した時に知り合った。それ以来、数か月に一度のペースで、昼食を共にする付き合いが続いていた。私が体質的にアルコールが飲めない為、付き合いはもっぱら昼食を共にし、雑談をする事だった。大抵は、M氏から電話があり、私が応じるというものであったが、私にとっては日本語で会話ができる時間がとても楽しかった。

ここ1年位、連絡が無いと思っていたら、別の友人からM氏が入院しており危篤状態との情報が入った。癌が全身に転移しており、処置のしようがないとの事。コロナウィルス感染の影響で、病院の面会も制限されており、どうしようかと思っていた時、死去の連絡があった。入院から1週間もしない間に他界してしまった。

M氏とは、余りプライベートな会話は無く、もっぱら仕事や趣味の話だった。5年も前から癌を病み、医者や病院を拒否しながら生活していたという話しを聞き、言葉を失ってしまった。外見では全く病気を感じさせる兆候が無かったが、数年前にM氏が語った「会社を整理してゆっくりしたい」と言う言葉が思い浮かんだ。彼は何を考え、何をしようと思っていたのか、楽しい人生だったのか、思い残すことは無かったのか。何も知らないで付き合っていた私は、彼の友人と言えるのか。色々と考えせられている。

彼は、日本に帰国する事無く、ボゴールの山中にある墓地に埋葬された。なんとも寂しい限りである。